院長の雑談-ちょっと記憶が古い話-

雑談に何を書こうかと心に入れておくと、そのまま消えてしまうことが多くなった。ただ時々心の中に浮かび、睡魔と共にまた消えてゆく。

さて今日はそのことを思い出したので書こうと思うが、記憶が古い話になるし確かでない部分があることは了解願いたい。
先の大戦が終わり8月15日に玉音放送がながされ日本としては終戦記念日とか、敗戦記念日とか言われるようになる。ただこれは日本国内のニュースであり国際的な取り決めの中での話はない。言わば9月の初めに執り行われた調印までの非公式な日本国内での話である。
その2週間余りの時期に日本を侵略した国がある、それはソビエトで日本軍は北海道まで押し寄せてこようとしたソビエト軍と戦い、何とか調印式に入るまで抑え込んだ。

 別の見方をすればこの戦争に入る前まで朝鮮半島と台湾は赤く塗られ日本の国の中のものであったわけだ。それと同じで敗戦の調印式までに台湾や朝鮮半島は奪還されてしまっていた。つまり北方4島も同じ運命にあったわけだ。かろうじて沖縄はアメリカによる占領という形で日本の一部でありながらアメリカに占領され、のちに返還されることになるのだ。ともあれ戦争によって領地が大きくなったり小さくなったりしたのは長い歴史の中では当たり前のことである。考えてみれば国境なんぞというものはこの200年ほど前まで存在していなかったわけだ。
 マルコポーロやコロンブスはパスポートなど持っていなかったし三蔵法師だって同じで世界中を自由に動けたのである。
 ともあれ4島はソビエトに敗戦とともに取られてしまったのである。本来なら取られておしまいだったわけで、ソビエト連邦との戦利品であったわけで、4島に関して問題は一切なかったのである。実は戦後日本はいろいろの分割統治の話が出たソビエト、中国、アメリカ、イギリスが日本を分けてという話が合ったのだが、今のセイロンの政治家で、スリジャワルディナプーラコッテ氏の発言によって日本という国が一つの国として戦後できたのは日本人として忘れてはならない。昔コロンボと言われた首都も少し位置が変わってセイロンの首都はスリジャワルディナプーラコッテと呼ばれるところになっているが、彼が住んでいた地域である。

 戦後20数年北方4島の話は手を付けられない状態であったのだが、北方4島は日本のものであったことを忘れていた。しかし戦後焼け野原だったところでオリンピックをやり貿易国でも大きくなり東京タワーもできた。日本は焼け野原から大きく発展を始めた。世界の人々からすれば奇跡の発展に見えたに違いない。と同時に途上国の人々の憧れの国に見られていた。
 横道にそれるがバングラデシュの独立1周年お祝いに初代大統領は日本政府の大臣を招待した、長く文部大臣をやり最後は自民党の永久名誉総裁になった坂田道太氏その祝いに参加された。記念式典の後どのような分けか私は坂田道太先生と2人で7~8時間を2人だけで大使公邸で話をしたのだが、大統領からの質問で戦後何もなかった日本が素晴らしい発展をしている理由を教えてほしいと質問されたという話があったと言われた。私はどの様にお答えになりましたか?と質問をしたら、坂田先生は日本は戦後伸びたのではない、日本は鎖国の後の100年で今の日本になった。戦争でなにもなくなったのは現象であって日本人には大きな問題ではないのだ、と答えられたという。この話は他人が居ない大使公邸で私と坂田先生の話での会話であるから、私が話したことがある人以外は知らないことである。
 ともあれ坂田先生を大切に扱っていた人物は田中角栄氏だ。戦後初めて田中角栄氏はソビエトのモスクワを訪問したのだが、前夜はドイツの大使公邸に日本大使と田中角栄氏の2人で話になる。その時の日本大使は角栄氏は大使公邸に居ながら周りに全省庁を置いているように電話で話しまくり時間をかけ多面的な考察をして翌日モスクワ入りをしたそうである。この話も考えてみれば面白いつまりあまり知られていない話だ、なぜなら角栄氏と大使しか知らぬ話だからだ。つまり私はその大使からこの話を聞いたわけだ。
 さて田中角栄氏は翌日モスクワに行き大きなテーブルをはさんでソビエト連邦の人々と向かい合った。そこで角栄氏は本日の会談は公式文書にして残すことを条件に、そのうえでないと日本から話をすることはない、と言い放ち黙ってしまったそうである。
 何も話さない日本人の首相を前にしてソビエトの連中は泡を食ったわけだ。そこで渋々角栄氏の申し入れを承諾して、公式文書で残すことを確約してしまったわけだ。
 それが分かった田中角栄氏が1時間以上口に出したのが「北方4島はわが国固有の領土である」とだけを連呼して会談が終わってしまうのだ。この席で北方領土問題が公式文書として残された・・と言う話だ。

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