院長の雑談-私のニックネームは-

私のニックネームは小さい頃からいろいろと変わってきた。名は眞と書きマコトと読む。4小さい時代はまこちゃんで始まり小学校ではマコチン中学ではエンデンになり高校を出て数年は素直にシオタで過ごしてきた。
わが母親は与謝野晶子の末のお嬢さんと共に桃井第二小学校を卒業する。その時の1年後ずー協をした方で、杉並区の区議をやっておられた。その方のバックが市川房江女史だった。身軽な方で丸ノ内線の出口まで迎えに行ってもお一人でにこやかに現れるおばあちゃまだった。
言うまでもない彼女は日本の女性を人間の女性とした方で、平塚らいてふ(雷鳥)さんの仲間だった、そして平塚雷鳥さんの女性運動に力を貸したのが、森鴎外である。
話はまだ続くのだが、それは後にして選挙の時の事務局には多くの若者が集まった。その集まりの中で、自己紹介を聞きながら折り紙でハトを作っていたのが私で、市川女史は羽をパタパタさせるハトの折り紙を見て、名前を覚えるのは面倒と、私にポッポちゃんとニックねえーむをつけてしまった。その後このポッポちゃんには山ほど救われる事になる。しばらく市川さんとのふれあいの後、私は勉強のために日本を出てしまった。
 その後に市川事務所に入ってかき回したのが菅元首相である。その昔は二院クラブと言って青島幸雄や中山千夏だったかが所属したところだ。

 さて海外での生活で英語で自己紹介をすると覚えてもらえない、ところがニックネームはぽっぽだと言うと一発で覚えてもらえる。23歳の終わりからニックネームはポッポとなった。その後知り合った方総てがポッポと呼ぶようになり、覚えやすいこともあって一気に広がっていった。イスラムの世界でもヒンズー教の世界でもキリスト教の世界でもこのポッポは覚えやすく誰も私の名前を2度尋ねる人はいなかった。

 マザーテレサという方にはお目にかかってはいないが、彼女が作った施設は34ほどあった。それらの20以上の施設とかかわりを持ったのだが、ローマ法王からの手紙もポッポM.シオタであった。ある時日本から持ってきてほしいものがあると修道院長から頼まれて薬品(制癌剤)を運んだことがあるが、80万円を超える費用だったが、小切手で下さった。
一時帰国の時に銀行へ換金をしに行ったら、まずこのポッポとは何だと受付の方に聞かれた、私のミドルネームだよと答え、そこで私が裏を見てごらん・・と話すと彼女は裏を見てバチカンの小切手であることをしり、このようなきれいな小切手を見たことがありません・・これ現金化するのがもったいないですね、と話が進んだ。大笑いした出来事だった。
 まだマザーテレサがご存命でよくテレビでよくテレビに出ておられたときにいつも横に連れ添うようにして手伝いをするシスターがある日、インドで狂犬病の犬にかまれてしまった。マザーテレサの顔を持ってしても人用の安全な狂犬病ワクチンが手に入らなくて大騒ぎになった。私は日本から自分用に持っていたのだが、そこはカソリックという大きな組織でのことバングラデシュの片田舎に居るポッポがワクチンを持ってるということが分かり、いつ発症するかわからない体で私の所へ来てくださったことがある。有効期限は少し切れていたのだがギリギリ14回分のワクチンがあったちょうど人一人を助けるに必要なワクチンの量である。まあ外から見ても使えるワクチンと使えないワクチンはわかった。
このワクチン北里研究所の先生を訪問して購入してきたものだった。自分では数か月に一度は自分で接種していたものの、残りだったがシスターが訪問して1年以上過ぎてもマザーテレサの横に彼女が居るのを見て、ワクチンの有効期限が過ぎていたが助かったのだとうれしい思いをしたものだ。

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