私が大学の時に(100%テキサスA&Mの姉妹校)で面白い必須科目があった。これは獣医学だけではなくすべての学問の専攻した学生が必ず受ける授業である。名前は(エクステンション)という科目だ。何を学ぶかだが、それぞれの専攻した学問を世の中にいかにして広めるか、という学問である。
 途上国だからあった学問ではなく、農科ならば学んだ農業がどのようにあなたたちに必要かを農家の人々に感ずかせ、やってみようと思わせる為の学問なのだ。大した内容があったわけでは無いので細かくは覚えていないのだが、自分が学んだもの考えたもの、導き出したものを発信し、関係者の発展をも導き出そうということだ。日本にはない学問である。内容ははっきり覚えていないが学んだことは覚えていて、何をするときも頭の中の片隅に存在がある。

もう一つ気が付いたことに「定義」がある。どの科目にも定義がありその定義から、その分野でのそれぞれの学問に入ってゆく。
 つまり解剖学に定義があり定義なしでは講義が進まないわけだ。
例えば解剖とは動物の体を臓器ごとに切り離して、その臓器の役目のマクロ及びミクロの分野を学習する。その学問には、例えばの話だが解剖学の定義の後に次のものを含む、とある。

1骨学(骨につく腱も入る)
2呼吸器
3消化器
4眼科
5生殖器
6神経回路
7循環器
8循環器
9エクストラ骨(動物の種類によって異なる骨学)

このように何をこれから学ぶのかを教えられる。面白いことに授業で重要なところはラテン語で教えられる英語でも答えは書けるのだが、かの私もラテン語はさすがに忘れてしまっている。ラテン語で教えられたことによって英語ではスラスラ言えるのも面白いものである。
 定義によって自分が何を学ぼうとしているのかが、はっきりするのが良いことで、学ぶうちに教科書に書いてあること以外の「この様なこともある・・」と派生してゆく内容が解剖学なのか他の分野に入ってしまっているかが分かることにある。まあ教科書に書いてあることだけを答案用紙に書いても60点のギリギリ合格点で80点90点と良い点をもらうのは大変である。
 教科書も日本の教科書と比較して3~5倍の量を勉強する。今になって考えれば忘れてしまってもそう困ることもないが。何を学んだかを覚えているだけで、忘れていれば見直せばよいだけである。
 かのアルベルト・アインシュタインは「教育とは学校で学んだすべてのことを忘れてしまった後、脳に残ったものが教育であると述べている。」
また「調べて分かることは覚える必要がない・・」と言っている。基本的にひとまず将来やるだろうことの全体を1度記憶のどこかに残し、なにかに直面した時には頭にあるものを自分の力でどのように再構成をするかということだろう。
私は10人以上の人の論文の手伝いをし、卒業をさせ、または博士号を取得させてきた。しかし私もいくつかの所から「うん」といえば博士号を出すよと、誘いを受けたことがある。私は「うん」って言ってもらうような博士号はいらないと言い続け・今日に至った。

日本人には足の裏の米粒みたいだが(とらないと気持ちが悪いがその後は肩書だけで役に立たない。何方にしても人か温厚なら好かれるし嫌な奴なら嫌われる。学問的には大半が中途半端で終わってしまっていると思うからだ)私は海外で獣医学会を創ってみたり、日本でXXX学会をいくつか立ち上げたが全く博士は必要がなかった。
 まったく関係がない話だが、家内と私は一緒になってから籍を入れず内縁のまま47年ほどが過ぎた。必要な時には入籍することは問題がないが・・とやってきて、JAFの会員証や家族会員、ガン保険の受取その他私の名前の後ろに「内縁」と書いてきて、それで問題はなかった。現実には今終活に入ろうとしているのだが、この部分も遺言状でほぼ問題はなさそうである。
 まあ博士号と入籍とは同じようなものであると考えるわけだ。しいて言えば入籍は怖い、内縁であれば喧嘩をして「じゃあね」と別れてしまえばその時点ですべてが終わってしまう。それが怖いので私たちは一緒になってから自慢ではないが1度も喧嘩をしたことはない。
私が負けるのは明らかだからだ。